宗教の目的は「自由」

鎖

宗教の目的を一言で言えば「自由」ということになるでしょう。

イエス・キリストは「真理はあなたたちを自由にする」と言いました。また、教学に詳しい日蓮宗の僧侶から聞いたことですが、かつては「悟り」を”enlightenment”と訳していましたが、最近は”freedom”を使うことが多いのだそうです。

辞書で「自由」を引くと、以下のような意味があります。

①自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。

②勝手気ままなこと。わがまま。

③《freedom》哲学で、消極的には他からの強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」を指す。

④法律の範囲で許容される随意の行動。

宗教の目的とする「自由」は当然③、特に後半の「自主的、主体的に自己自身の本性に従う」という積極的自由と考えられるでしょうが、それだけでは不十分です。というのは、一般的に「自己自身の本性」と考えられているものが、往々にして既に自由ではないからです。

人間には個性があり、自己自身の本性というときには個性を念頭に置いていると思います。しかし、人間は個性によって行動の選択が限定され、自由を制限されているわけです。

例えば人に頭を下げるのが嫌いな人を考えてみましょう。

「自主的、主体的に自己自身の本性に従」って頭を下げないことはできますが、それによってトラブルを起こし、職場で左遷されたり、ビジネスチャンスを失ったりという結果ももたらすでしょう。逆に、上司や客は勿論、目下の人にでも頭を下げることのできる人は、トラブルを回避し、上手く立ち回ることが可能になります。

一方で、上司や客に対しても頭を下げないことが有功に作用する場合もあります。無闇矢鱈にペコペコする人がいいというわけでもありません。つまり、個性は自分の選択を制限するもの、自分を不自由にするものでもあるわけです。

個性はその個人特有の性質と考えられていますが、仏教では「諸法無我」というように、あらゆるものに固有の性質はないとします。個性は、(前世や先祖を含む)過去の行為や経験によって形成されたものと考えるわけです。トラウマなどが典型的な例といえるでしょう。

過去の経験によって形成された個性を自己自身の本性と錯覚しているため、本性に従って自主的、主体的に行動しているつもりが、実は過去の経験によって制約された行動を選択する結果になっているのです。

およそ宗教、特に神秘主義が問題にするのはこの点です。上記の定義を使って宗教が目的とする自由を説明するならば、「内からの強制・拘束・妨害などを受けないこと」ということができるでしょう。

そして、この「内からの強制・拘束・妨害など」を仏教では「煩悩」と呼ぶわけです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする